ベネズエラのココア
世界のココア種の地理的配分をした執筆者達の調査で、多くの種類がベネズエラを通していることが確認されました。20世紀終わり近くまで、メキシコだけが唯一のココアの起源だと考えられてきました。この最近の起源の認知で、ベネズエラが17世紀から保有する、特にポーセリンココアが目立つところであるクリオーロ種の名声を説明することができます。
スペイン人はベネズエラでココア木が東に向かう多種多様の地域とマラカイボ湖の盆地の南に広がっていることを発見しました。又、彼らは Black River と High Orinoco の森に巨大なココアフィールドの存在に気付きました。これが「山のココア」、もしくはココアとして知られているものです。アメリカインディアン達はチョコレートと呼ぶアーモンドで飲物を作り、偶像の祭壇にココアのショートニングを泥のグリルで焼いて捧げ物としました。アステカの人々も同じことをしました。アメリカインディアンは又、ココア豆を通常通貨として使用し、薬効、宗教、美容手段として飲物を使用したのです。
ベネズエラのココアにライバルはいません。高い芳香を誇り、存在する唯一の白く甘いココアであるクリオーロは、ほんの僅かしか残っていません。1825年にベネズエラに、現在はトリニタリアン・アウトサイダーと呼ばれていますが、高い生産力を持つが品質の劣るトリニダードの種が紹介されました。
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ベネズエラ、チュアオ(ココアの乾燥) |
| これらのココア木の交配の結果、そのオリジナルの品質を失ったのです。本日では、他の種類よりも高価な値段であるクリオーロ種の代表、「マラカイボ」、「チュアオ」、そして「コロニ」しか残っていません。 |
国の西にあるトルヒーヨ州は、ココアが初めて栽培された土地の1つです。スペイン人はポコの谷に広い土地を発見し、ジブラルタルのベネズエラ港からマラカイボ湖を通してスペインに向けて果実を輸出したのです。それにも関わらず、ほとんどの製品はオランダのコロニーであったカリブのクラツアオに逸れました。このため、より良い価格を提供する欧州の他の国に向けた大規模の不法貿易が始まったのです。よってスペインのコロニーはココアを含むベネズエラの製品の供給保証の目的で Guipuzcoana 社を創りました。ベネズエラの作家ラファエル・バラルトによると、「 18 世紀の後半、アムステルダムのオランダ人が購入していたため、スペインはそのベネズエラでプランテーションした作物を一粒も受取れなかった。」ということです。
コロニーの間 (1600-1800) 、ココアの栽培は国全体に広がりました。沿岸の地域にある土地バルロベントでの初めてのプランテーションは、 クリエペとパナクイレでアラゴン人のカプチーノによって設立されました。同じ沿岸地域の テュイ川の横で栽培された オリツコのアーモンドは、そのアロマと素晴らしさに見合った名声を得ています。又、国の東側では、数え切れない広大な土地が築かれ、ココアの取引が盛んになりました。
スペインに対する独立戦争が開始される前の1810年までに、ベネズエラは1年にココア200.000ファネーガ (20.000トン) を収穫しました。共和政体の間 (1850-1880) 、栽培の浮き沈みにも関わらず、ココアはその卓越したポジションを維持し続けました。独立戦争によって起こった景気後退の後、18 世紀の終わりと19 世紀には、ココアはその優先性を再度取り戻し、その時の社会活動のメインとなりました。それはベネズエラの輸出の75%を占め、巨額の収入となりました。それからココアは、平均ファネーガで8ペソという非常に高い価格で売られ、広大な土地の所有者であるマンツアノスは、王子のように優雅な生活をすることができたのです。ココアの取引のおかげで、THE BIG COCOAS (大きなココア)という新しい称号が社会に現れました。
独立戦争で、ベネズエラココアの主な購入国であったスペインが去りました。これは又全世界でコーヒーの得た莫大な人気と時を同じくし、1840 年には結果として製品は半分に縮小し、約100.000ファネーガ (10.000トン) となりました。 フンボルトによると、彼らがベネズエラを訪問した時 (1800初期) には、国土には現在の物よりも大変秀でた生産を行なう約 600万木があったとのことです。